展示(コレクション)
● 常設展
徽典館展示コーナー
展示背景・概要
山梨大学のルーツは江戸幕府が開設した昌平黌の分校「徽典館」にあります。18世紀末から現在に至るまでの時代の変遷を表す資料や徽典館碑及び扁額の拓本を展示しています。
「徽典館」のいわれ
山梨大学の淵源は、遠く江戸時代までさかのぼる。
徳川幕府は江戸に昌平黌(しょうへいこう・昌平坂学問所)を開き、幕府の文教政策の中心とし、幕臣子弟に対する教育を担わせ、人材育成に努めた。昌平黌には分校があり、各地の幕府直轄地に設けられたが、幕府中枢から最重要視された分校が甲府の徽典館(きてんかん)であった。この徽典館こそが山梨大学の淵源である。
徽典館は、寛政7年(1796年)から寛政8年にかけて、甲府勤番支配の役宅に設けられた甲府学問所に始まる。甲府勝手小普請の富田武陵が教授方を務めた。享和3年(1803年)より新校舎建設計画が具体化し、翌々年の文化2年(1805年)に甲府城追手門の南3町(1町は約109メートル、錦町)に竣工、林述斎(大学頭)によって「徽典館」と命名され、松平定信の揮毫による扁額が掲げられた。天保14年(1843年)、追手門の南に改めて大規模新校舎が建設された。学制も大幅に改革され、本校である江戸の昌平黌から学頭二名が派遣されることとなった。この二度目の校舎新築を記念して「重新徽典館碑」が建立された。文は友野霞舟(徽典館学頭)、書は浅野梅堂(甲府勤番支配)、篆額は林檉宇(ていう・大学頭)である。以後、日本の近代化の礎を築いていくことになる開明派幕臣(岩瀬忠震、永井尚志、矢田堀鴻、田辺太一、中村正直等)が次々と徽典館学頭に着任している。
徽典館は、明治維新の最初期に一時休業したが、すぐに再開され、その後、開智学校、師範学校等と名称と所在地の変遷を重ねつつ(明治10年代には徽典館の名称に復したこともある)、山梨県立第一高等学校や日川高等学校、山梨県立中央病院の歴史とも交差しながら、連綿として現在の山梨大学教育学部へと続いている。
徽典館
「徽典」は、中国最古の歴史書である『書経(しょきょう)』の「舜典(しゅんてん)」に見える「慎徽五典」<慎しみて五典を徽くす(つつしみてごてんをよくす)>の語句から採ったもので、蔡沈(朱子の弟子)の集伝は「五典は五常なり、父子に親あり、君臣に義あり、夫婦に別あり、長幼に序あり、朋友に信あり、これなり」と解釈している。
したがって「徽典」とは、人倫五常の道を修めるという意味である。わかりやすくいいかえれば、人が人であることの高みをめざして集う、そこが徽典館である。